初刻

雪が降っている。

全ての風景を白く染めようと、深々と降り続ける冬の欠片。

低いと言えど、ここは山だ。春夏、秋には美しく広がる田園風景が臨め、

特に天気が良いときには果てに海が広がる、そんな場所なのだ。

しかし、今はどうだ?

雪によって埋め尽くされた村は白以外の色彩を欠いている。

空一面を雲が覆ったのはすでに七日も前の事。以来天候は変わらず、世界を一色に染め上げた。

雪を想定して造られた、高床式の家々も白く埋もれようとするほどの日数だ。

もう、どの家も限界が近い。

「やはり、“冬奉式とうほうしき”にしか道は残されていないのか……」

麓邑れいゆうを雪から救う方法はある。“冬奉式とうほうしき” ……私にしかできない神儀。

それが上手くいけば、村は雪の脅威から逃れることができ、

来年以降も天災と呼ばれるほどには降らなくなるだろう。

人々を救おうと思うなら、すぐにでも儀式を行うべきだ。理性はそう叫んでいる。

しかし、私の心は……

「優賢さま……あまり外にいては、身体に障ります」

響く声は柔らかく、優しさに満ちている。

「風花……」

振り返ったすぐそこには、どこか儚い美さに彩られた少女。

艶やかな黒髪は長く、微風にふわりと揺れる。白粉など必要のない肌はそれこそ雪のように白い。

神楽風花。

この神社を司る“和島”の家系、その分家である“神楽”の娘。私の儀を奉納舞ほうのうまいによって助ける巫女。

そして、和島優賢……私の従姉妹で、いずれは私の妻となる許婚でもある。

「ああ……すぐに戻る」

もう一度村を見下ろす。

皆、私のことを信頼してくれている。私のことを慕ってくれている……。

私も、皆を救いたいと思っているのに……。

皆の期待に応えることが、こんなにも苦しく、辛いことになるなど……。

「風花……私は冬奉式を成功させなければならないのだな」

解りきったことを問うのも、私の迷いの表れだろう。

「辛い選択ですが……その迷いの先に未来は在りません」

凜、とした声は彼女の強さ故のもの。

風花はすでに受け入れている。

「私は風花が羨ましい」

全てを受け入れる強さが私には足りなかった。

「優賢さま、私は貴方が思うような人ではありません」

つ、と逸れる視線。

長い睫毛に隠れた瞳は如何いかな感情を秘めているのか。

「心の何処かでは喜んでいるのです。これで優賢さまが私を見て下さる、と……風花はそんな汚い女なのです」

風花は私を愛してくれている。私も風花を好いている。それは互いに解りあっていること。

それなのに風花にこんなことを言わせてしまうのは……

「風花、私は……」

す、と小さな手が口を塞ぐ。外気に冷えた、柔らかな感触が言葉を消してしまう。

何も言わずに微笑むその表情は、淋しげで儚い。

風花は無言で告げる。

解っています、と。

私は彼女を護らなければならない。護りたい。それは嘘偽りのない気持ちだ。

「戻りましょう」

もう大丈夫、と口に添えられた手が離れ、代わりに私の手に添えられる。

「ああ……」

まだ、心は燻っているが、芯は決まった。私は風花の為にも、もう迷わない。

冬の冷たい空気に冷やされた風花の手を、しっかりと握る。

「優賢さま……」

先程とは違い、嬉しそうに微笑む風花。

梅の花のような慎ましやかな笑顔と、手に返ってくる確かな想いに、罪悪感が胸を刺した。

「二日と一刻後、逢魔ヶ刻おうまがときに儀式を執り行う。

これは村を救うための重要な儀式だ、万全の準備でこれに臨め、他の者にもその旨を伝えよ」

これで終いだ。

もう後には引けない。

最後の歯車を、私は廻したのだ。

私は、私の愛した者を贄として捧げる。一番を捨て、二番以降を守るために……。

失うことが前提の救い。この運命変えられぬのなら……

ならば、残りの時間を有効に使おう。

することは一つだけ、愛おしい人に愛を注ぎ尽くす。限られた時間で限りない愛を……。

こうして、深々と降る雪の中、終わりへの始まりが紡がれた。

儀式まで一日と十刻

「優賢、わたしはどんな準備をすればいいの?」

そんな声をかけられたのは、私が御神刀ごしんとうの用意をしていたときだ。

「時雨か」

時雨……性は無く名だけの少女。名以外の事は全てが謎に包まれ、素性は一切知れていない。

二年前に麓邑れいゆうに流れて来たところを私が引き取ったのだが……。

「どうしたの?」

特徴的な、色の薄い瞳が私を見つめる。

時雨はいわゆる先祖帰りというものなのだろう。

瞳だけでなく、髪や肌、身体中あらゆる部位の色が欠けていた。

雪色の身体をした彼女はまさに冬そのものを現しているよう。

「いや、時雨はまるで冬みたいだな、と思っていた」

「よくわかんないけど、わたしに見惚れてた?」

その無邪気な問いが、可愛らしい。

くしゃ、と頭を撫でてやる。

「ああ、そうだな……お前には風花とは違った魅力があるよ」

時雨はくすぐったそうに身をよじって私の手から逃れ、そこで頬を膨らます。

「風花と比べるのは卑怯だよ。風花、完璧過ぎるんだもん……」

そうかもしれない、誰もが風花の美しさに感嘆し、その優しさに救われる。誰からも好かれる、そんな女性だ。

だが時雨を魅力的だと感じるのは私にとって違えようのない気持ちだ。

「はは……悪かった。でもな、時雨は本当に可愛いと思うぞ」

もう一度頭を撫でる。

「えへへ、そう? そこまで言われるとなんか嬉しいかも」

時雨の笑顔に私の胸は痛み、そして同じくらい心を癒される。

「ねぇ、優賢は儀式までずっと忙しいの?」

首を傾げる仕種がまるで小動物のよう。

「そうだな、私にしか出来ないことも多い。忙しくなるだろうな」

「そっかぁ……残念。

あっ、でもわたしに手伝えそうなことがあったら言ってね」

ぎゅっ、と小さな両の手が私の手を包む。

「ありがとう時雨」

作業ですっかり冷えた手に温もりが広がる。

「いえいえ、やっぱりわたしの役割じゃ本番まですることあんまりなさそうだし」

暇なんだ、と時雨は言った。

……何故風花といい時雨といい、こんなにも強いのだろうか?

「時雨はなんでそんなに強くいられるのだ?」

時雨の役割……

笑って言えるような簡単な役目ではない。

「わたしが強いのかはわかんないけど……それは“今”があるからだよ。

優賢が拾ってくれる前に比べれば、こんなのなんともないんだ」

今、か……確かに初めて会った時の時雨はなにもかもを敵視していた。

この容姿のせいで、人々から怖れられ、迫害され続けていた。

私も目茶苦茶言われたものだった。苦笑いしか出ないような思い出だが、懐かしく大切なものだ。

「ねぇ、優賢。もし暇が出来たらわたしとちょっとだけお話ししよう?」

私を元気付けるためだろう。その優しさが胸に心地良い。

「みんなが忙しいのはわかるけど、わたしがすっごい暇なんだよ~」

私の為ではなかったらしい。これまた苦笑いしかでないが、これが良い。

「なら急いで終わらせるか」

「おおぅ、さすが優賢殿はわかってるのぅ」

「ああ、だから無駄話はここで終わりだ」

私も時雨とは話しをしておきたいが、時間を浪費してその機会すら無くなってしまうのはいただけない。

「むぅ、やっぱり優賢の意地悪」

しかし結局、時雨は後ろから話し続け、私は準備をしながらその相手をすることになってしまったが……。

儀式まで一日と二刻

「優賢さま、時雨、そろそろお昼にしましょう」

風花がそう現れたのは、昼をだいぶ過ぎた頃だった。

祭壇の用意に思った以上に手間取ってしまい、すっかり飯のことを忘れていた。

「有り難い、助かるよ風花」

「さっすが風花。良妻の鑑だね」

…………。

私を手伝っていた時雨が風花に惜しみない賞賛を送る。

「私はそんな、まだまだ……」

顔を赤く染め、小さく呟く。

風花は自分の思いを伝えるのは得意なのに、褒められるのは苦手だった。

「やっぱり風花は可愛いなぁ」

むぅ、と時雨が呻く。

「もういいですから、早くいただきましょう、時雨」

三人揃っての食事も、これで最後になるのだな……。

私はこの後から明日の昼まで神域の形成。風花は奉納舞ほうのうまいの構築。

時雨と風花は明日になれば清めの儀もある。

顔を合わせることもほぼ無くなるだろう。

「これは……風花が作ったのだな」

三人で囲む盆の上には少し歪な形の握り飯。

「風花って意外と不器用なんだよねー。味は極上だけど」

いただきます、と三人で手を合わせる。

「はい、どうも三角に握るのが苦手で……。如何でしょうか優賢さま?」

ふむ、時雨が言ったように味は文句の付けようがなく、形だって私には意味のないものだ。

「美味いよ風花」

それしか言えない私の語彙の少なさが悔しくもある。

「はい、有り難うございます」

それでも風花は嬉しそうに微笑んでくれて、そのことに安堵する。

「ねぇ、どうやったらただのおにぎりをこんなに美味しく作れるの?」

時雨は不思議そうに風花の作った握り飯を見つめる。

「ふむ、それは私も興味があるな。なにか特別なことでもしているのか?」

「そんな、優賢さままで……。

私は特には何もしていないと思うのですが。どうなのでしょう?」

「なるほどねぇ、つまりそれは……」

時雨がなにかに気付いたようだ。

間を置き、

「愛ねっ!」

高らかに宣言する。

愛、か……。

「うふふ、確かにそれなら自信がありますね。

私は誰よりも優賢さまを愛していますから。あ、もちろん時雨のことも好きですよ」

それは嬉しくもあり、苦しくもある告白。

しかし私はその愛に応える言葉を、かけることが出来ない。

「うわ~言っちゃった……。風花ってときどき大胆だよね」

そう言われ、また頬を紅く染める風花。そんな彼女に、

「私も……風花のことを大切に思っている」

それが、今言える精一杯だった。

「うわー。もうあつあつだねっ」

嬉しそうに時雨が騒ぐ。

それに風花はさらに顔を紅くする。

今日は赤くなりっぱなしだな。

「ほら時雨、あまり時間は無い、食べたらすぐに作業に戻るぞ」

「えーっ、もう!?」

口を尖らせての抗議。

「もうちょっと風花とお話ししたいよー」

と、風花に抱き着く。

二人は本物の姉妹のように仲が良い。それは私だって二人と話をしていたいが、

でも私はここであまり時間を使いたくなかった。

「食べたばっかりで動くのって良くないんだよ優賢」

「そうですよ優賢さま。もう少しだけお話ししましょう?」

む……二人がかりで言われては、弱い。

結局、三人での談笑はしばらく続いた。

もしかしたら、風花も時雨も同じ気持ちなのかもしれない。いや、同じなのだろう。

作業は……これから急げば良いか。

私もまだまだ弱いな。

儀式まで九刻

皆はもう眠っただろうか?

夜も深まり、全ての気配が消える頃合。

ただ、かたかたと戸を揺らす風だけが夜を支配している。

外は吹雪いているな……

いっそ、今止んでしまえばどれだけいいことか……。

そうすればこの責からも解放され、思うままにも生きられただろう。

それこそ、誰も私達を知らない場所へ二人で逃げることも……。

「優賢さま……まだ起きていらっしゃいますか?」

風花……?

戸の向こうから聞こえるのは間違いなく私の許婚の声だ。

「どうしたのだ?」

「その、すごく不安になって、眠れなくて……」

声も不安に揺れている。

いつもは大人びて見える風花だが、まだまだ子供なのだと再認識した。

戸を開け、風花を迎え入れる。

「優賢さま……!」

途端にぎゅっ、と抱きつかれる。

「どうしたのだ?」

震える身体を抱きしめる。

「優賢さまが、いなくなってしまうんじゃないかって、そんな考えが頭を離れなくて……」

心臓が跳ねた。

それは奇しくも今私が考えていたことだ。

「私は、どこにも行かないよ……」

そうだ、私は風花を護ると決めたのだ、今更逃げることなどできない。

「風花を独りにはさせない……」

これからはずっと一緒にいる。

「ありがとうございます優賢さま……」

腕の中、風花の吐いた溜息は安らぎ。

「落ち着いたか?」

「はい、でも……その……」

ぎゅっ、と風花の手に再び力が込もる。

「ここで寝てもいいですか?」

まだ不安なのだろうか?

「ああ、私は別に構わないが……」

この部屋には布団は一つのみ。

致し方ない、風花が眠ったら他の部屋へ行くか。

「ほら、風花はもう休みなさい」

布団に寝かせる。

「優賢さまも一緒に……」

小さく囁く、その唇に。縋るようなその視線に。

私を掴んで放さない小さな手に。

どうしようもないほどに艶を感じてしまう。

「駄目ですか?」

そんなわけない。ただ……。

いや、私は風花の側にいると誓ったのだ。

「わかった」

風花の隣で横になる。

布団の中に広がる風花の温もり。

「温かいです、優賢さま……」

「ああ、私もそう思っていた」

この温もりを大切に想う気持ちに偽りはない。

だが……

「優賢さま……」

風花の細い腕が私を抱き、求めてくる。まるで私を逃がさぬように、と。

「風花、私はお前を愛する」

だがっ……!

「その前に気持ちを整理したい」

私が今愛しているのは、

「私は時雨を愛しているから……」

明日の儀で、私は時雨を贄に捧げ、この雪を終わらせる。

見ているだけで冬を喚起させられる神秘の白色。

先祖帰りによって、もっとも神に近い身体を持つ時雨。

彼女を、神儀“冬奉式とうほうしき”によって新たな八百万やおよろずの神とする。

「私はどうすればいいのでしょうか?」

私の胸に顔を埋める風花の声は震えている。

「時雨がいなくなることが、哀しいはずなのに……。

時雨を妬み、いなくなることを喜んでいるのです……」

矛盾した気持ちを抱えることはどれだけ苦しかったことだろう?

「もう少しだけ待ってくれないか?

明後日……いや、明日の夜にはすべてが終わる」

そう、雪も……私の想いも……。

「優賢さま」

小さな手は私を放さず、小さな唇はなにかを求めるように私の名を囁く。

なにを求めているのかを知っているのに……

「すまない……」

風花の想いに応えることができない。

ただ、風花を抱きしめることしか出来なくて……。

「はい……風花は待っております」

寂しげな声が、罪悪感となり私の胸を刺す。

風花を傷つけながらも、今この想いを捨てることが出来ない。

間近に感じる温もりが、今は痛かった……。

儀式まで四刻半

なんとか、間に合いそうだな……。

神域の形成。

山の上に建つ社。その奥には固く閉ざされた扉がある。

そこは文字通り、山の中へ続く回廊が敷かれている。

いつの時代、何を行うために作られたのかは、既に失われ伝わってはいない。

しかし自然の力が溢れるここは、新たな“神の間”として相応しい場所だった。

明かりを通さない地下深くは、湿った空気に淀んでいたものの、あまり寒くはない。

幾本かだけ立てた蝋燭ろうそくの火だけが光源。それを頼りに、陣を敷き、祝詞を刻んでいく。

ここで……。

手が震える。

くっ……雑念を払えっ!

集中せよ、今は儀式を成功させることだけを考えていれば良いのだ。

を殺すのだ。

そんな己との戦いをしばらく続け、私はなんとか負けずに済んだ。

最後に新神あらがみ御名みなを刻む。

これで、私に出来る全ての準備が終わった。

はぁ……。

つく溜息も達成感に満たされている。そんな時に

「ゆーうけんっ、終わった?」

響いたのは、場にそぐわぬ明るい声。そして、私の好きな声だ。

「時雨?」

突然の時雨の登場に、慌てて平然を装う。しかし心は乱れ、愛しさと哀しみに吹き荒れる。

「ずっとそこにいたのか?」

こんなにも近くにいたのに、呼ばれるまで気付かないとは……

「うん、邪魔しちゃ悪いかなーってね。それにね、いろんな顔をする優賢を見てるのが面白かったんだー」

思わず自分の顔に触れてしまう。

一体、私はどんな顔をしていたのだろうか?

「今度は困った顔ー」

くすくす、と楽しそうな時雨を見ているだけで、私の心が揺らぐのだ。

彼女の存在に気付かなくてよかったのだろう。

「それで、時雨はすることがないのか?」

少し憮然とした声になったかもしれない。

「うん。昼過ぎに清めの儀があるけど、それまでは自由なんだー」

くるっ、と一回転。

「だから、最期は優賢とお話しでもしてようかなって。ほら、結局昨日も忙しかったからさ」

なぜ、そんなに明るくいることができるのだ……私は、私がこれほどに辛いというのに……。

なぜ死を求められる本人がなんでもないことのように振る舞えるのだ……。

「ね? だからお話ししよう?」

頷く以外の返事があるだろうか?

「えへへー。それじゃあ何から話そうかな」

「えっとね、さっき風花に会ったの」

時雨は話しながら、古から新へと蝋燭ろうそくの火を移していく。

「風花に?」

朝、目が覚めたらすでに風花は隣にいなかった。そして今日はまだその姿を見ることもなかった。

「うん、なんか元気なかった。風邪でもひいたのかなぁ?」

風邪でないことを願い、風邪であることを願う。

もし、私や時雨の事で心を曇らせているのなら、風邪であってほしい。

そんな、最低な願いだ。

「時雨とはなにか話したのか?」

ぽつ、ぽつ、と明かりが増え、神域から闇が消える。

「うん、少しだけどね……。っと、これくらいでいいかなぁ?」

とん、と蝋燭ろうそくを立て、こちらを向く。

「時雨にね、“生きたい”とは思わないのですか? って……そう聞かれたの」

無数の小さな明かりが、時雨を照らし出す。

「私ね、今がすっごい幸せ。

優賢がいて、風花がいる。

今までの人生十五年、そのたったの一年だけど……それでも一生分の幸せがつまってた。そう思えるから……」

まだ、先は長いではないか!

もしこの儀式さえ無ければ……

「まだ、これからもその幸せは続くだろう?

何故、もう終わったかのように言うのだ!」

それが、たまらなく悲しい……。

「もう……終わったんだよ優賢」

あくまで柔らかく、優しく告げる。

「これ以上は、私がその幸せを壊しちゃうから……だから、私は幸せなまま居なくなりたいの」

それは予知で預言で、諦めでもあった。

そこまでの決意をさせる、その終わりとはいったいなんなのだ?

「優賢……儀式、成功するよね?」

唐突に変わる話。

「時雨、私は……」

「お願いっ、これだけは最初に話しておきたいの!」

遮る声は強く、必死だ。

まるで、その問いが一番重要だと言うかのように。

「“冬奉式とうほうしき”は成功して、みんなは助かるんだよね?」

ああ、儀式自体は難しくはないのだ。失敗する事などない。

ただ……

「儀式は成功させる。失敗など無い、時雨が贄となるのだから……」

それは受け入れなければならないものだったが、一番口にしたくない言葉だった。

「よかった……」

それは強い安堵。死などまったく怖れていない、心からのものに聞こえた。

「絶対に……なにがなんでも成功させてね」

時雨……?

「約束だよ?

私の事なんか気にしないで、ただみんなを救うことだけを考えて……」

「なにを言っているのだ……?」

少しだけ違う、その様子に不安がよぎる。

「約束、して……」

釈然としないが、それを時雨が望むのなら……。

もとより、そのつもりであったのだ。

「改めて誓おう。私は儀式を成功させ、皆を救うと」

村人達のために、風花のために、そして時雨のために。

「うん。ありがとう、優賢」

そこで、一際美しく微笑んでくれる。

「あのね、優賢……。私……」

切れる言葉。

「私、優賢の事が好きだったよ……」

なによりも愛しい、その微笑み。

「風花が優賢を想ってるのと同じくらい、私も優賢の事が好きだったの」

なによりも大切なその温もり。

「私……ひぁっ」

それを抱きしめていた。

強く、強く……。

「私も、だれより時雨の事を愛している。

だれよりも愛しく想っている……」

通じた想いが、嬉しいはずなのに、心が裂けるほどに哀しかった……。

儀式の刻

社に造った祭壇。その前に私は立ち、一度辺りを見渡す。

風花、見習いの弟子達。

その後ろには村の人々。

皆が揃っていることを確認。

袖を振り、祭壇へ向き直る。その中心にはこれから贄となり、皆を救う時雨。

白い着物……死装束しにしょうぞくに身を包み、手には御神刀ごしんとうとなる小刀を携える。

しん、と座るその瞳にはいかなる感情も無い。

虚ろにまでたどり着いた自己の統一。

その雰囲気は初めて私に会った頃に少しだけ似ている。

それが、懐かしく、哀しい。

…………始めよう。

「掛けまくもかしこ深山大神しんさんおおかみと称へ奉る……」

声を震わせ、神達に届くように祝詞のりとを紡ぐ。

そして、それを合図に風花の腕が振るわれる。

りん……

その腕に下がっている鈴が鳴る。

風花が前に出、祭壇に一礼。

風花の奉納舞ほうのうまいが始まる。それはひたすらに美しく、美しく、美しい……。

りん……

す、と横に伸びる腕が円を描く。ゆったりとした円運動。長い黒髪がふわりと舞う。皆の視線が風花に集まる。

八百万神やほよろづのかみよの大前おほまへを慎みゐやまおろがみて祈申のみまをさく」

人々はその美しさに神性を見、儀式に神性を見出だす。皆のその、畏れにも似た感情が時雨を神に昇華させる。

もともと人外と恐れられた身。皆を畏れさせることはたやすい。

りん……

澄み渡る鈴の音が皆の心を清め、高め、共鳴させていく。

大神等おほかみたちの広き厚き御恵みめぐみかたじけなみ奉り、高きたふと聖教みをしへのまにまに……」

神々への祈りが、美しき奉納舞ほうのうまいが、澄んだ鈴の音が、時雨を鮮やかに、鮮烈に彩る。

閉ざされた瞳。ぴくりとも動かぬ身体。

本当に生きているのか、と疑ってしまうほどに、時雨は儀式に同化していた。

なほく正しき真心まごころもちて誠の道にたがふことなく、なり弥進いやすすめに進め給へ」

既に人ではなくなったのかもしれない。

りん……

奉納舞ほうのうまいが、祝詞が、折り返しに入る。

高天原たかあまはらかみつまります大天主太神もとつみおやすねおほかみみこともちて八百万やほよろづの神たちを神集かむつどへに集へたまひ……」

社の中の空気がぴりぴりと震える。

ここは既に人の世ではない。神々が集う台座。

ここにいる者全てが時雨を注視している。

それでも時雨は動かない。ただ、その時を待つ。

りん……

最後の一節。

風花の舞も締めが近いのか、動きが小さく、ゆったりしたものとなる。

神議かむはかりにはかりたまひて今此いまこ今此いまこ神体しんたい八百万やほよろづの神に迎ひ給へとかしこかしこみもまをす…………」

りん……

終儀しゅうぎ

そして、これが最期の刻だ。

時雨に近づき、しゃくを向ける。

「時雨……最期にお前に新しい名を与える」

瞳が開く。

その色はどこまでも澄んでいて……私の知っている、明るい優しさも無い。

そう思いながらも、心が少しも乱れないのが、また少しだけ哀しい。

「冬そのものと言える、新しき八百万やおよろずの神。

雨雪うせつの後に、春のような暖かな一時を与える一陣の天涙てんるい

神名、これを告げれば終わりだ。

時雨小春しぐれこはる……それが新しい名だ」

時雨が頷いたのを確認。

「それでは、御身を神域へ……」

こくり、と再度頷く。

祭壇の奥、鉄で作られた頑丈な扉を開錠。

闇への入口を開く。

一礼し、時雨に道を譲る。

神域に入る前、入口で時雨が一度だけ振り返る。

一瞬だけ、私に微笑みかけてくれた……。ありがとう、と。

時雨っ……!!

ふるふる、と首を振る。

だめだよ、と。

知らずに、一歩踏み出していた。

視界が、滲む。

駄目だっ!

「皆、新神あらがみへ礼を!」

風花が鋭く叫ぶ。

すまない風花……。

もし、今のを見られていたら……

神儀を司る者がこのような醜態を晒せば皆の神性が失われる。

堪えるのだ、優賢!

これが皆が望み、時雨が望んだ結末なのだ、私の恋慕が潰してよいものではない!

…………。

ばいばい

言葉にならない言葉。

それが、最期だった……

時雨が神域へ消え、

扉が閉ざされる。

終刻

しん、と静まり返った山の中。

私は一人、社の前に立っている。

豪雪の名残は辺り一面の白のみ。太陽に輝く雪原は限りなく美しく眩しい。

まるで嘘だったかのように空は晴れ渡り、暖かな陽射しが降り注ぐ。

小春日和。

皆が願っていたものがここにあった。

しかし、私が望んでいたものは……。

社を仰ぐ。

既に神域への道は閉ざされ、二度と開くことはない。

時雨……

つ、と頬をくすぐる、涙の感触。

ああ……私の想いよ。今のうちに全て流れてしまえ。

私の恋は終わったのだ。

それは、すでに、不要な……ものとなったのだから。

私の一番は風花となったのだから……。

風が吹く。

降り積もった粉雪が躍り、舞い、風花となる。

時雨に、次の生があるのなら、次こそは多くの幸を……

(完)